ホーム > 文化・スポーツ・観光 > 歴史 > メールマガジン「あおもり歴史トリビア」 > 「あおもり歴史トリビア」第91号(2014年1月17日配信)
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更新日:2015年6月1日
このところ真冬日が続き、雪の多い日が増えてきましたね。私たち大人にとっては、大量の雪の始末に追われるなかなか大変な季節ですが、雪の降り積もった道路や氷の張った川が子どもたちにとっては格好の遊び場となっていた時代がありました。青森の冬の遊びについて新聞記事を調べてみたところ、大正期の紙面に、青森の子どもたちのスケート遊びについて書かれた記事がたくさん見つかりました。そこで今回は、大正期の青森のスケートにスポットライトを当てて見てみようと思います。
今の子どもたちのイメージするスケート、というと屋内スケート場のイメージが真っ先に浮かぶかもしれませんが、当時の子どもたちにとっては、凍った手ごろな川や池は天然のスケート場でした。たとえば、大正期、堤川の水面が厚く凍結した時などは子どもたちが1人、2人と川へ降りて滑っていたそうです(若松新吉著『創業 若松円太郎伝』)。
また、大正6年(1917)12月28日付の『東奥日報』には、厚い氷が張ったうとう沼を見て子どもたちが200人近くも集まり、一斉にスケートを楽しんだ、という記事が載っています。うとう沼がスケート場のように使われたのはこれが初めてのようで、まだ市内にアイススケート場の設備が整う前の時期ですから、子どもたちには大変うれしい遊び場だったことでしょう。また子どもたちは、しっかりと雪が固まってさえいれば道路もスケートリンクにしていたようで、市内の大通りが、スケート遊びに熱中する子どもたちであふれ返る様子が新聞に載っています。自動車の往来が少なかった時代だからこその光景ともいえますね。
さて、当時の子どもたちが着用していたスケート靴ですが、福島常作著『私の青森から』によると「べんじゃ」と呼ばれるものを使っていたようです。底を三角形に切り取った下駄に、滑り金を付けた下駄スケートで、滑り金の先がくるくると渦を巻いていることから「まぐれべんじゃ」とも呼ばれました。「べんじゃ」の呼び名は弁財(べざい)船(江戸時代に内航海運で用いられた和船)の形に似ていることから付けられたようです。滑り金はカナマグジ屋(蹄鉄屋)に作ってもらいました(北彰介著『オモチャッコ(2)』)。
手作りのスケート靴で、雪や氷とふれあい元気に遊ぶ子どもたちの姿を想像すると、自然と笑みがこぼれてきます。まだまだ寒いこの季節、今の子どもたちにも、外で目いっぱい冬を楽しんでほしいですね。
べんじゃ
(青森市森林博物館展示資料を参考に筆者作画)
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