ホーム > 文化・スポーツ・観光 > 歴史 > メールマガジン「あおもり歴史トリビア」 > 「あおもり歴史トリビア」第67号(2013年7月26日配信)
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更新日:2015年6月1日
「大暑」の時期となり、今年も、まもなく「青森空襲の日」を迎えます。
きょうは、昭和47年(1972)に市が発行した『青森空襲の記録』から、空襲時の学校の様子について、その一端をご紹介したいと思います。
小学校が国民学校という名前に変わったのが昭和16年4月のこと。その後、昭和19年2月には「学徒動員措置要綱」ができ、国民学校高等科(現在の中学生)や旧制中学校の生徒は学徒動員で授業が停止され、開墾作業や各地の工場(県内だけでなく県外の場合も)での作業に従事していたといいます。
また、当時は、「防空法」という法律があり、国民学校高等科以上の人は防空従事者となり、勝手に持ち場を離れ、転住したりすることが禁止されていました。
一方で、昭和20年7月10日の仙台空襲により、いよいよ青森への空襲が現実的なものとして捉えられるようになり、翌11日の県の緊急会議で、国民学校初等科以下の子どもは、高齢者、病人などとともに疎開させることが決まりました。そのため、市内の国民学校の生徒は7月23日時点で半数から3分の1程度になっていたようです。
そのような中で、7月28日の夜、青森は空襲に見舞われ、市内では19の学校が罹災しました(広報あおもり7月1日号「青森タイムトラベル」第6回で紹介しています)。
合浦公園付近には、県立青森中学校(現・青森高校)、県立青森第二工業学校(現・青森商業高校)、市立第一中学校(現・青森北高校)がありました。『青森空襲の記録』には、この中で焦土に残った市立第一中学校の空襲時の様子が校長代理の手記として掲載されています。
空襲による被害範囲(合浦公園付近)
焼夷弾が投下される中、校長代理が第一中学校に駆けつけた時、学校の非常警戒に当たっていたのは、病弱などの理由で学徒動員に参加しなかった10名たらずの4年生と教官1名だったといいます。幸い第一中学校は直撃弾を受けていなかったものの、校舎の周囲には焼夷弾がごろごろしており、また高いところの板さくりが燃えていたため、はしごを持ち出して全員の協力で消し止めるなど、校舎の焼失を防ぐため、生徒が奮闘していました。周囲の学校が次々に燃えるのを目撃しながらも、逃げずに果敢に校舎を守っていたのです。
しかし、校舎は守り抜いたものの、この夜の空襲で校医のかたと4人の生徒が死亡、また、8月4日、不発弾事故で生徒2名が即死、2名が重傷を負ったことは、痛恨の出来事であったことでしょう。
焼け残った市立第一中学校校舎(『青森市史』第一巻より)
こうした記録から、空襲時、現在の中高生にあたる生徒も含め、それぞれの役割を果たそうと懸命に努めた当時の人々の必至の姿を知ることができます。多くのかたの犠牲と努力のもとに現在の平和が築かれていることをかみしめる日が、今年も近づいています。
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