ホーム > 文化・スポーツ・観光 > 歴史 > メールマガジン「あおもり歴史トリビア」 > 「あおもり歴史トリビア」第41号(2013年1月18日配信)
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更新日:2015年6月1日
こんにちは。1月に入った途端、雪が降り出し、あっという間に平年の積雪量を超えてしまい、八甲田大岳の登山口、酸ヶ湯の積雪は3.9mに達しました。今頃、山中はいかばかりでしょうか?
今回は、編さん室への問い合わせシリーズ第3弾をお届けします。
明治35年(1902)の歩兵第5連隊八甲田山雪中行軍遭難にまつわる話です。
このお話は、新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』が昭和52年(1977)に映画化され、ご存知のかたも多いと思います。
雪中行軍は、日露戦争を間近に控え、寒冷地であるロシアとの戦いに備えた作戦でした。第8師団管下の部隊には歩兵第5連隊と第31連隊という二つの部隊があり、雪対策は、これらの部隊に課された課題でした。
歩兵第5連隊の解説板(青森高校前)
歩兵第5連隊の門(青森高校前)
第5連隊は、青森県東津軽郡筒井村に設置されて以来、寒気と雪が作戦に及ぼす影響について研究し、明治23年(1890)酸ヶ湯を経て十和田に至る雪中行軍、同32年(1899)小川原沼の氷上通過等、作戦を果たしてきました。
明治35年には、さらに構想を広げ、敵が陸奥湾を封じた場合を想定し、冬期厳寒期を利用して、八甲田山を越え青森から田代を経て三本木平(現十和田市)に進出する研究をするため、同年1月23日山口第二大隊によって、田代に向って1泊行軍が行われました。
この行軍は、隊員210名中、11名の生存者があるばかりで199名の兵士が八甲田山中に凍死した大惨事になりました。
後藤伍長の銅像
これまでは、未曾有の悪天候を遭難事故の原因とする天災説が強調されていましたが、最近の研究では、国民の徴兵忌避を恐れた政府や軍当局にとって責任論の沈静化が必要であったことなど、政治的意図で事実が隠蔽されたことが指摘されています。
遭難将兵は、政府の方針により戦死者同様として処遇されることになり、陸軍省では靖国神社に合祀するとともに、明治36年(1903)、墓地を幸畑に定め、埋葬式を挙行しました。この幸畑陸軍墓地は、数度にわたって整備され、現在、青森市の史跡天然記念物になっています。また、墓地の隣には八甲田山雪中行軍遭難資料館があり、いろいろな資料をみることができます。
八甲田山雪中行軍遭難資料館
史跡天然記念物 幸畑陸軍墓地
この墓地の近くに遭難兵士たちの木彫が祀られている地蔵尊(現在「英霊堂」という表示板があります。)があり、地蔵尊の前には、1対の狛犬が置かれています。この狛犬は、雪中行軍遭難者探索に活躍したアイヌ犬と思われる犬に由来しているのではないか?という質問がありました。
この狛犬が、本当にアイヌ犬なのか、次回、狛犬の謎に迫りたいと思います。
※今回の内容は『青森市史』別冊歩兵第5聨隊八甲田山雪中行軍遭難60周年誌(昭和38年青森市発行)、『新編弘前市史』通史編第4巻(平成17年弘前市刊行)、中園裕「「雪中行軍」はなぜ有名になったのか?-遭難事件の処理過程から-」(『青森県史研究』第7号 平成14年青森県発行)を参考にしました。
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