ホーム > 文化・スポーツ・観光 > 歴史 > メールマガジン「あおもり歴史トリビア」 > 「あおもり歴史トリビア」第20号(2012年8月17日配信)
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更新日:2015年6月1日
初めまして。臨時職員の鈴木です。編さん室に保管されている歴史資料や図書類の整理などをしております。今回は、市史編さん室とその周辺について、町会誌の中からご紹介したいと思います。
市史編さん室は、松原一丁目の松原ポンプ場施設内にあります。ここには様々な樹木が植えられ、緑に囲まれています。今春はウグイスが毎日美しい声を聞かせてくれました。夏休みの間は、近くの勤労者プールから響く子どもたちの元気な歓声やラジオ体操。秋にはカエデの大木が紅葉しザクロが実り、冬は広い敷地に雪が積もり、まずは除雪で朝が始まる…。そんな青森の四季を実感できる職場です。
このあたりは、現在たくさんの住宅が立ち並び、中央市民センターや棟方志功記念館、NHKなどがあり、人や車が多く行きかう地区ですが、昭和59年(1984)発行の『松原町会の歩み』によりますと、明治の頃まではずいぶんと淋しい場所だったようです。
松原通りは、妙見(みょうけん)、大豆坂(まめさか)を経て弘前へ通じる藩政時代からの往還道路で、道の両側に松並木が続いていました。
明治9年(1876)に現在の青森高校の場所に歩兵第五連隊が設けられたため、そこに通じる松原通りがまっすぐに改修されました。筒井のあたりには五連隊の官舎などが建ちましたが、松原はまだ田畑が多く人家は少なかったようです。
大正時代には、通り沿いに「小舘木材」「長尾牧場」「和田寛醤油」などがあり、現在ポンプ場のある付近は、堤川につながる、木材会社の貯木池になっていました。
大正15年頃の松原通り(市史編さん室蔵、「大日本職業別明細図之内青森県」より)
戦後、松原通り沿いに住宅が増えていきましたが、昭和43年10月に移転する以前の東北本線(現在、平和公園から松園橋に至る遊歩道)以南はまだ農地が広がっていました。その一隅に堤弾正(つつみ・だんじょう)の遺跡といわれる石積みがあり、これは昭和10年発行の『青森市寺院誌続』にも「裏町堤弾正之墓」として記されています。堤氏は南部氏の一族で、津軽郡代としてこの地に派遣されました。横内公民館発行の『横内村誌』によれば、昭和28年、この石積みは有志の手により、横内常福院(じょうふくいん)内にある堤氏と内室朝日御前(あさひごぜん)の墓標(明治28年建立)の後ろに移されました。
手前が堤弾正の遺跡といわれる石積み
横内常福院
その後、松原地区は区画整理が進められ、公共施設、学校、企業、住宅も増えて賑やかな街に変わっていきました。昭和45年4月には青森市で第一号の歩行者天国「ちびっこ道路」が松原町の市道に誕生し、子どもたちが道路でのびのびとボール遊びに興じた時代もありました。昭和59年、ここ松原ポンプ場(当時、勝田総合ポンプ場)が運転を開始し、この地区の下水道も完備されました。
こうした各町会などで発行された記念誌では、その地区のいろいろな歴史、先人の足跡を知ることができます。機会がありましたら、図書館などでみなさんの町の歴史を調べてみてはいかがでしょうか。新しい発見があるかもしれません。
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