ホーム > 文化・スポーツ・観光 > 歴史 > メールマガジン「あおもり歴史トリビア」 > 「あおもり歴史トリビア」第180号(2015年10月16日配信)
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更新日:2017年3月9日
こんにちは!室長の工藤です。
来年3月の開業を控えた北海道新幹線。最近では、歴史資料室にも「青函」にまつわるテーマでの講演依頼もあり、ムードの高まりを感じています。
さて今回は、これまでも何度か取り上げてきましたが、幕末の箱館と青森、なかでも外国人との貿易をテーマにした話題をご紹介しましょう。
安政元年(1854)3月に日米和親条約が締結されました。これにより開港地の一つとなった箱館は、外国貿易の実践の場となりました。もちろん、青森商人も外国人との貿易に参加します。例えば、松前昆布の価格高騰に目をつけ、これまでは加賀船などによって取引が行われていた三厩・今別の昆布を、外国人との交易品として自分たちで扱おうと動き出します。ただ、箱館開港をきっかけとする外国人との商売は、ビジネスチャンスであったものの、一方では「大怪我」をした商人も少なくなかったようです。
青森浜町の豪商滝屋の記録によれば、外国人との商売は損得が激しいといい、これによって商人の盛衰もずいぶんとあったといいます。というのは、商人と売買契約を結んだ外国人は、納品された商品にあれやこれやと不服を言い、一旦破談にしてしまうのだそうです。一方、商人の側では外国人の要求に応えた商品を用意したため、ほかに転売することもできず、その結果大幅な値下げをすることでようやくこの外国人に買ってもらうことになります。こうした方法での取引が横行していたため、この記録の著者は「わな」とか「悪謀計」と評価しています。そして、この手口にひっかかり、さらには長期にわたる箱館での滞在費がかさみ大損をした青森商人のうち、米町の大村屋正蔵は箱館での借財のカタとして「人質」に取られてしまったと記しています。
このほかにも、弘前の商人が商品代金の未払い分をめぐって争ったり、盛岡の商人とアメリカ人との間では生糸の取引をめぐる訴訟が起きています。このように、開港地箱館での外国人との交渉では、さまざまな場面でトラブルが発生していたのです。
旧イギリス領事館(函館市)
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