ホーム > 文化・スポーツ・観光 > 歴史 > メールマガジン「あおもり歴史トリビア」 > 「あおもり歴史トリビア」第195号(2016年2月5日配信)
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更新日:2018年1月18日
こんにちは!室長の工藤です。
今回は藩政時代の町並みに関する話題を一つ提供します。
藩士時代、青森町と城下弘前との決定的な違いは、青森には「武士」がいないということです。もちろん、青森町にも町奉行所や湊に関わる番所などがあり、そこに詰める武士はいました。しかし、町並の中に武家屋敷群ができるまでには至っていません。
さて、そんな青森町で、いわゆる行政や司法を担当していたのが町奉行と呼ばれる人たちでした。1か月交代で2人の武士(役人)が派遣されました。そして、彼らが詰めるのが町奉行所です。場所は、現在の善知鳥神社の東隣になります。
善知鳥神社周辺
(『新青森市史』資料編4付図「青森町絵図」〈貞享~元禄初年〉トレース)
ところが、奉行所は寛政5年(1793)に移転になりました。なんでも、天明3年(1783)の大火で類焼して以来ずっと仮普請の奉行所だったようで、この年に新築・移転となりました。場所は少し離れた浜町で、現在のワシントンホテルの北側にある駐車場の辺りです。町奉行の下で町政の一端を担っていた、佐藤・村井という町年寄の居宅が近くにあり、しかも海にも面しているので、湊町青森を運営する「お役所」という意味では格好の場所であったと思います。そして、町奉行所はこの場所で明治をという新しい時代を迎えた…とばかり思っていました。
旧町名「浜町」の解説板(本町3丁目)
先日、何気なく史料を読んでいたら、安政6年(1859)に町奉行所が北側(海手)側に移転するという記述を見つけました。背景はこの年に起きた大火で、町奉行所が類焼してしまうのです。安政6年の大火は青森町の9割以上の家屋が延焼した、前代未聞の大火と評価されています。町奉行所もこれに巻き込まれていたのです。新しい町奉行所は、おそらくは現在の神外科胃腸科医院の付近であったろうと推察されます。当時この辺りは砂浜で、他の建物といえば、東側に湊番所がある程度でした。ここが本格的な開発に着手されるのは、青森が県庁所在地となってからの明治5年のことです。
そして、その少し前、幕末の青森町では海岸部に役所機能が集約されることになりました。また、明治になってからも、海岸部には町役場や市役所が設置されていた時期がありました。ちょっとした縁を感じますね。
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