ホーム > 文化・スポーツ・観光 > 歴史 > メールマガジン「あおもり歴史トリビア」 > 「あおもり歴史トリビア」第92号(2014年1月24日配信)
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更新日:2015年6月1日
こんにちは。臨時職員の村上です。
みなさんは青森市役所本庁舎前に右手をあげ、左腕で炎を抱いた人物のブロンズ像があるのをご存じでしょうか。市役所の前を通る方の多くが目にしていることと思います。
市役所本庁舎前のブロンズ像
先日市役所を訪れたとき、一緒にいた祖母から像の制作者について聞かれました。私はこの像の名前も制作者も知らなかったので、二人で像の周りを調べてみたのですが、像の名前や制作者などの情報を記すものは見当たりませんでした。そこで、過去の『広報あおもり』を調べてみたところ、第109号(昭和42年1月5日発行)に像の写真と説明が掲載されていました。
説明によると、この像は青森市出身の画家・浜田英一(はまだ えいいち、1911-1997)の構想にもとづいて、野辺地町出身の彫刻家・小坂圭二(こさか けいじ、1918-1992)が制作したもので、昭和38年(1963)9月、かねさ株式会社の社長を務めた阿保定吉(あぼ さだきち)によって市に寄附されました。「青年らしくはつらつとした伸びゆく青森」を象徴して作られたものだそうです。
像のモデルとなったのは浜田英一の長男・剛爾(ごうじ)でした。この名前にピンときたという方もいらっしゃると思います。浜田剛爾はパフォーマンス・アーティストとして活躍し、平成13年(2001)に開館した国際芸術センター青森(ACAC)の初代館長を務めました(現・青森県立美術館パフォーミングアーツ推進実行委員会委員長)。私はこの像にモデルがいたということに大変驚きました。
像を制作した小坂圭二は旧制野辺地中学校在学中、教員を務めていた青森市出身の画家・阿部合成(あべ ごうせい)に学び、美術家を志しました。「世界の破れを担うキリスト」(青森県立美術館蔵)などの宗教彫刻で高く評価され、青森県を代表する彫刻家といわれています。昭和25~27年には高村光太郎の助手として十和田湖畔の「乙女の像」の制作にも携わりました。
柳町通りの「母子像」
『小坂圭二作品集』(1984年 究美企画)を参照したところ、市役所前にある像は「縄文の炎青年像」という作品名で紹介されていました。また、市内にある作品として、柳町通りの「母子像」(昭和38年制作)、リンクステーションホール青森(青森市文化会館)の「北の花杯」(昭和57年制作)も紹介されていました。これらの作品についても、改めて足を運んでみたいと思いました。(敬称略)
※『青森県史叢書 近現代の美術家』(2012年 青森県)などを参考にしました。
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