ホーム > 文化・スポーツ・観光 > 歴史 > メールマガジン「あおもり歴史トリビア」 > 「あおもり歴史トリビア」第59号(2013年5月31日配信)
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更新日:2015年6月1日
こんにちは。お天気に恵まれた5月26日は、小、中学校へ運動会に出かけられたかたも多かったのではないでしょうか。
市史編さん室では、「~藩政時代の青森町を歩く~」と題して、「青森」誕生の歴史を中心とする藩政時代の青森町のようすを、実際にまちを歩きながら紹介する歴史講座を青森市男女共同参画プラザ「カダール」と共同で行いました。
講座が始まる前から、参加された皆さんが、研修室のボードに貼られた330年前の古地図をご自分の住んでいる所はどこかなどと、熱心にご覧になっていました。
330年前の古地図を見る参加者の皆さん
講座では、講師である当室事務長から藩政時代の青森町のエピソードや特徴、成り立ち、「善知鳥村」の謎について説明を受け、相槌を打ちメモを取っていました。
そして、実際に古地図をもとに安方、新町周辺の水路跡、一念寺、安定寺、善知鳥神社、安方湊番所等を回りました。講座のアンケートによりますと、参加されたかたが一番興味を持った場所は、弘前藩の出先機関で、藩主の宿泊所として使われていた「御仮屋(現青森県庁)」でした。私も市史編さん室に来るまで、「御仮屋」はどういうものなのか、また、県庁に石碑があることを知りませんでした。
青森県庁へと歩いています
「御仮屋跡」の碑の前で講師の説明を聞きました
石碑の隣にある「御仮屋の由来」によりますと、御仮屋は、この地に建てられたのは寛文11年(1671)で、「仮屋」は、「仮屋形」の略語で当時、弘前の本城を「屋形」と称したのに対して、青森では「御仮屋」と呼んだようです。
その規模は東西71間半(約130m)、南北68間(約124m)、周囲に砦や堀をめぐらし木柵を結び、樹木を植え、本陣、武器庫、望楼を備え、また東堀の外には射的場を設けてありました。元治元年(1864)名称を「御陣屋」と改めましたが、明治2年(1869)再び「御仮屋」の名に戻り、以後、明治4年この場所に県庁が置かれるまで、この名称でした。
昭和20年(1945)の戦災と、その後の都市計画の実施と新庁舎の建築等により、当時の面影が遺るものがなくなったので、後々の標として、昭和38年1月に石碑が建てられました。
「御仮屋跡」の碑
碑の隣にある「御仮屋の由来」
青森市は、藩政時代の景観は残っていませんが、こうした石碑等にふれることで、由来やその目的がわかり、当時の風景を想像するとタイムスリップしたようにワクワクします。
また、この講座で青森町が成立する以前に、堤町周辺に「包宿(つつみのしゅく)」という町があったことがわかったので、どのような町だったのか調べてみたいと思いました。
今回の講座のようすは、NHKテレビのニュースで紹介されたほか、エフエム青森の「ラジモット!」で、講座やメールマガジン「あおもり歴史トリビア」をご紹介いただきました。
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