ホーム > 文化・スポーツ・観光 > 歴史 > メールマガジン「あおもり歴史トリビア」 > 「あおもり歴史トリビア」第5号(2012年5月2日配信)
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更新日:2015年6月1日
前回は合浦公園の桜祭りについてお知らせしましたが、今回は合浦公園の成り立ちについてお話しします。
合浦公園は元弘前藩士水原衛作(みずはら・えいさく)が創設した県内有数の歴史を持つ公園です。水原は「人々が英気を養う場としての公園」という信念を持って公園創設申請を何度も出した末、ようやく明治14年(1881)に県から公園の開設が認可されました。当初は地名を冠して造道公園、または青森公園と称されていました。水原は自らの財産をつぎ込み、日夜造園に励みましたが、疲労がたたり公園の完成を見ることなく生涯を閉じました。公園内にはその功績を讃えて、記念碑が建てられています。
その後、水原の実弟柿崎巳十郎(かきざき・みじゅうろう)が兄の意志を継承し、明治27年に公園としての景観が整いました。翌年、維持管理は青森町が行うこととなり、名称を合浦公園とすることにしました。
水原衛作・柿崎巳十郎の像
海浜公園として全国でも珍しい合浦公園
また、合浦公園は全国でも珍しい海浜公園で、明治41年(1908)日本人初の公園デザイナーで当時の造園技術の第一人者である長岡安平(ながおか・やすへい)は「海のある公園は東北六県はもちろん全国でも多くはない。庭園家の垂涎(すいえん)する所である。」といっています。さらに「青森の公園は大良公園であり、世界的公園である。」とも評しています。公園の権威、長岡の来青後、市民の評価も一変しました。公園は改修、敷地拡大などして、着実に市民の公園として姿を変えていきました。園遊会・運動会・祝賀会など市民による合浦公園の活用は多方面にわたり、昭和3年(1928)には海水浴場も開設されました。このような歴史を経て、合浦公園は青森市最大の名勝地かつ行楽地となり、また市民にとっても親しみのある公園となりました。
桜祭りが終わっても合浦公園では、紅白のつつじや藤の花々が次に控えて、出番を待っています。
つつじ
藤の花
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