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更新日:2014年12月22日
縄文時代は、今から約13000年前から2300年前まで10000年以上の長い期間にわたり続いた時代です。縄文時代には、土器が発明され、煮炊きができるようになり、それまで生で食べられなかったものが煮炊きをすることにより食べられるようになりました。また、弓矢が発明され、狩猟技術も進歩しました。
長い期間にわたる縄文時代は、草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の六つの時期に分けられます。
青森市では、草創期の遺跡は1か所しか見つかっていません。次の時期の、早期の遺跡は、約10か所が見つかっています。その中で昭和51年に発掘調査が行われた蛍沢遺跡では底の尖った土器が見つかり、土器の表面には貝殻を使って文様を施していました。
早期には、人々は地面に穴を掘り込んで作る竪穴式住居に住むようになり、集落が作られるようになりました。また、貝殻や獣の骨などの食べかすを捨てることにより貝塚が作られるようになりました。
縄文時代前期は、現在と比較して気候が温暖であった縄文時代の中でも、とりわけ暖かかった時期です。温暖な気候という好条件のもと、青森市でも前時期の早期と比較し、数多くの遺跡が見つかっています。
また、前期の中頃からは、円筒土器というバケツを細長くしたような形の土器を用いる文化が、本県を中心として北海道南西部から東北北部の広範囲に花開きました。
その中には、前期から中期にいたる円筒土器文化のもと約1500年の長期にわたり集落が営まれた、全国でも最大規模の縄文集落である、三内丸山遺跡をはじめとして、昭和52年に高速道路建設に伴う調査で、集落と共に、大量に廃棄された円筒土器の大規模な捨て場が見つかった熊沢遺跡や、標高100メートル以上の地点に集落が営まれた桜峯(1)遺跡などがあります。
縄文時代前期中頃より始まった円筒土器文化は、中期に引き継がれます。前期の土器が円筒下層式と呼ばれるのに対して中期の土器は円筒上層式と呼ばれ、シンプルな形の多い前期の土器に比べると、土器の口の部分に突起や粘土紐による装飾が加えられるなど、より華やかになります。また、前期には胎土に植物繊維を混ぜることにより土器をもろくならないようにしていたのに対し、中期には砂粒を加え、焼成温度を高くして強固な土器を作っていました。
この時期の青森市の遺跡には、前期から引き続いて、大集落を造営していた三内丸山遺跡や、四戸橋遺跡、山吹(1)遺跡など、総数では前期には及ばないものの、多数の遺跡があります。
東北北半に広がる円筒土器文化圏に対して、東北南半には大木式土器文化圏が広がっていました。前期から長く続いてきた円筒土器文化も中期の最後には衰退し、南の大木式土器文化が徐々に浸透していきます。
後期は、気候が冷涼で湿潤な環境に悪化し、陸上の動植物に大きな被害を与え、特に東日本では、中期に爆発的な人口増加があったため、食料資源の枯渇に追い討ちをかけることとなり、壊滅的ともいえる打撃をうけたと考えられる時期です。
また、この時期には、呪術的・祭祀的遺物が豊富に作られ、多数の石を配置した「環状列石」や「配石遺構」、多量の土を盛土した「環状土籬」や「盛土遺構」などの大規模な遺構も多く作られます。
青森市内には、約400か所の遺跡が地中に眠っていますが、そのうち約120か所が後期の遺跡にあたります。
市内で調査された遺跡としては、環状列石をシンボルとする小牧野遺跡、石棺墓が見つかった山野峠遺跡、再葬用の土器棺墓が見つかった蛍沢遺跡、近年、クマの土製品が見つかった三内丸山(6)遺跡、そのほか近野遺跡や稲山遺跡などがあります。
晩期の東北地方では、サケ・マスなどの河川漁業を最大限に活用し、それを基礎に縄文文化の極致の様相をみせる亀ケ岡文化が展開しました。
各種の漁労具は亀ケ岡文化で最高度に発達し、土偶・岩版・石棒などの呪術的・祭祀的遺物の多彩さに加えて極めて優れた技法のもとに、美術工芸品とも呼べるような土器や様々な漆器が作られるなど、その内容の豊かさは群を抜いています。
青森市内では、約30か所の晩期の遺跡が見つかっていますが、前時期の後期の遺跡数と比べると、約3分の1に減少します。
市内の遺跡の代表例としては、塩づくりに使われた土器(製塩土器)や漁労には欠かせない銛や釣針などの骨角器が見つかった大浦貝塚、多量の玉類が副葬された土坑墓や県内でも検出例の少ない住居跡が見つかった長森遺跡、複数の土坑の上に多数の石と石棒を配石した墓が見つかった玉清水遺跡、多数の土坑墓が見つかった朝日山遺跡などがあります。
弥生時代は、食料生産を基盤とする社会が始めて開花した時代で、縄文時代のあと、日本列島で稲作が始まった紀元前4世紀頃から前方後円墳が出現する3世紀後半までの約600年間続きました。弥生という名前は、東京都向ヶ丘弥生町貝塚から発見された土器が、縄文時代とは特徴の上で区別されていたことから、この弥生土器を使用していた時代という意味で用いられるようになりました。弥生文化の及ばなかった北海道では、続縄文文化という、縄文文化に続き狩猟採集に依存していた文化を発展させていきました。
青森市内では、約10か所の弥生時代の遺跡が分布しています。
小牧野遺跡では、弥生土器のほかに、北海道の続縄文文化の影響を受けた土器が多く出土したほか、環状列石の一部を利用した石器加工の作業場も見つかっています。
畿内(現在の関西地方)を中心とする大和朝廷は、7世紀前半頃までに各地の豪族を支配下に入れることによって全国を掌握していきました。
朝廷から離れた東北地方の住民は、「蝦夷」と呼ばれていましたが、政治支配の拡大に伴って東北南部の人々は中央化してしまい、やがて蝦夷と呼ばれる人々は、日本海側では、秋田県の米代川流域以北の人々、太平洋側では、現在の盛岡市付近より北の人々だけとなってしまいます。
これまでの発掘調査で解き明かされた古代の遺跡は、ほとんどが平安時代を中心とするものです。代表的な遺跡は、蛍沢遺跡、野木遺跡、新町野遺跡、朝日山(1)・(2)・(3)遺跡、三内丸山遺跡、近野遺跡、小三内遺跡、細越館遺跡、内真部(9)遺跡などです。
人々の生活は、依然として竪穴式住居でしたが、平面形が円形ではなく、古墳時代から全国的に広まった方形で、住居の一部には、煮炊きを行うカマドが設置されているものが数多くみられます。
現在のところ丘陵地を中心とした発掘調査が主であるため、平野部への展開は未知数ですが、細越遺跡からは、灌漑用水路が見つかっており、また、野木遺跡では、丘陵の沢地の部分を利用し、水場として利水を行っていたことから低地で生活できる技術も持ち合わせていたようです。
蝦夷の人々は、朝廷と敵対関係にあったわけではなく、交易などを行い様々な情報を入手していたようです。また、青森市を含めた津軽地方一帯では、9世紀中頃からの遺跡数が増えることから一部の遺跡には、南側からの人々の移住の可能性についても考えられます。
土器作りに関しては、三内丸山遺跡から北陸で作られている須恵器の形をまねた土師器の壷が見つかっています。また、北海道で9世紀に入ってから作り始めた擦文土器の影響を受けた土器が小三内遺跡など平野部に近い遺跡から見つかっています。
土器作り以外の鉄生産に関する技術についても南側から入手しています。野木遺跡では、原料となる砂鉄から素材を作り、その素材から製品を作り出す技術を持っていたようです。
当時の人々が食べていたものについては、遺跡から見つかる例は限られていますが、蛍沢遺跡や野木遺跡から見つかった竪穴式住居跡の中から炭化した米が見つかっていることから、米も食べていたことが分かっています。野木遺跡からは、当時の畑跡の痕跡と考えられる畝状遺構が見つかっていて、麦などの穀物も自分たちで作り、食べていたようです。
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