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更新日:2016年4月1日
青森市における生鮮食料品市場の歴史は、寛永3年(1626年)4月、津軽藩2代目藩主信枚(のぶひら)公が青森で月6回の市を開かせたときから始まります。
信枚公は、寛永元年(1624年)藩祖為信公の遺命をうけ、一漁村であった善知鳥村に開港奉行を置き、青森村と改めて開港させ、翌年、江戸への祖米積出港として江戸廻船を始めました。開港奉行森山弥七郎は、町年寄を近江、越前、越後に派遣し、多数の移民を招聘しました。これら移民は漁業や商業に活躍し、商港としての青森港を発展させました。
津軽藩は、青森港の発展に意を用い、移住者に10ヵ年間免税の特権を与え、青森港に外ヶ浜商人船売買の特権を与えました。
明治33年6月16日、県令市場取締規則に基づき、認可を受け、新蜆貝町エビス島周辺に、青森魚菜市場を建設し、博労町、横町の漁商を収容しました。この市場は、青森湾内漁獲物を主とした消費市場の性格を持っていましたが、沿岸漁業の衰退に伴い、鮮魚の集荷不振となり、昭和20年の戦災後、復興することができず、問屋の多くが安方市場に吸収され、同市場は自然廃止となりました。
青森魚貝市場(通称安方魚市場)は、明治38年に開設されました。大正13年8月に青森市築港第1期工事の竣工に伴い、移転しました。市場区域約2,000坪、外に道路1,400坪でした。
青森の海産商は、明治8年までに千島・根室方面に16ヶ統の漁場を経営するなど、北方漁場の開拓に努力しましたが、その後サガレン漁場の開拓、カラガンスキー等の漁場の開拓を進め、特に北海道漁場の開拓、積取に積極的に取り組みました。大正8年頃から、冷蔵船をもって、北海道、沿海州、カムチャッカ、北千島等から鮭、鱒等を輸入し、東北・奥羽の2大鉄道を利用して関東・関西・東北地方の各地に輸送し、青森水産業界は下関に匹敵する活況を呈し、青森魚貝市場は、大集散市場となりました。
昭和14年、水産の配給・消費に亘る一元統制は、戦時体制下に入ろうとしている国の方針として強く打ち出され、昭和15年2月保証責任青森漁連として魚市場が一本化されて許可となりました。昭和20年、終戦とともに戦時統制令が廃止となりました。この年、丸青魚市場株式会社が創立し、魚市場は県漁連と当会社の共同経営となりましたが、昭和23年に、県漁連が単独開設しました。昭和31年、丸水青森漁市場株式会社が卸売機関の許可を得て、卸売機関は県漁連の単独から2法人となりました。昭和33年に、青森市が県漁連の施設を買収し、開設権が市に移り、昭和33年4月1日から青森市営魚市場が発足しました。
大正7年(1918年)頃、青森県農会の経営する蔬菜の露天市場が柳町と堤町に設けられ、生産者の持ち寄りで直接消費者に販売されました。
当時、他の地方からの果実・蔬菜の移入問屋は3軒あり、殆ど委託でした。昭和10年から昭和28年にかけて、5社が創設され、それぞれ私設市場を開設していましたが、内1社は昭和25年に閉場しました。
青森の青果商は、青森卸売市場協会を設立し、人口19万人の青森市に、公営市場の必要性を痛感し、昭和32年に「市営青果市場設置に関する陳情書」を市長に提出して活動を続けてきました。
昭和38年8月、協同組合青森園芸生花市場設立、生花の共同購買を開始しました。昭和48年10月、協同組合青森園芸生花市場は、中央卸売市場に関連事業者として営業認可を申請して許可され、営業を開始しました。
昭和49年8月、株式会社青森中央生花卸売市場設立、営業開始。昭和55年5月、協同組合青森園芸生花市場が株式会社青森園芸市場として営業開始しました。同年11月には、株式会社青森生花市場を設立し、営業を開始しました。これにより中央卸売市場開設区域において、花き業者が3社となりました。
平成28年4月、青森市中央卸売市場花き部から青森市公設地方卸売市場花き部へ転換し業務を開始しました。
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