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更新日:2016年4月11日
「ねぶた祭」に代表される伝統文化や三内丸山遺跡などの遺跡群と、八甲田山や陸奥湾という美しい自然に恵まれた青森市からは、多くの個性豊かな美術家が生まれました。
特に版画の分野においては、棟方志功(むなかたしこう)や関野凖一郎(せきのじゅんいちろう)をはじめとする日本を代表する版画家たちを輩出しています。そして現在も版画の制作が盛んで、青森市は「版画のまち」といわれています。
版とは、素材になるものに凹凸をつけ、それに色をつけて紙や布などに押す方法を意味します。木版は、木を版として用いた絵であり、石を用いると石版、銅なら銅版となります。
版で押せば同じ絵や文字がいくつもできることから、印刷の仕組みが考え出されました。柔らかく加工のしやすい木を素材に版の工夫が進み、安価で手軽な紙が発明されたのち、木版による印刷は大きく発展しました。
木版はその後、画家たちによってひとつの表現技術として利用され、特に日本の江戸時代には、写楽や歌麿に代表されるような「絵師」をはじめ、「彫師」、「刷師」といわれる熟練した職人が分業によって、多数の版を重ねて制作する多色木版「浮世絵」が大量に制作されました。
江戸時代後期になると、西洋から現代の表現でいう「銅版画と石版画」が導入されます。銅版画は木版画では得られない緻密でシャープな線が描けることから、油彩画等の複製手段として発展するとともに、紙幣製造技術など実用化への道をたどり、明治時代には切手や地図などの実用書や挿し絵の技法として普及しました。ただしこのころはまだ日本に「版画」という言葉はなく、「版下」や「擦物」などあいまいに呼ばれていました。
明治後期、このような実用的用途が中心であった版画は、制作者それぞれの創造性を表現する芸術へと変化していきます。
1904年(明治37年)雑誌「明星」に洋画家、山本鼎(やまもとかなえ)が木版画「漁夫」を発表し、その後雑誌「平旦」の中ではじめて「版画」という言葉が用いられました。そして、1909年(明治42年)、雑誌「方寸」に、山本鼎が美術的版画を提唱し、それを「創作版画」とよびました。
ここから「創作版画」とは、江戸時代の浮世絵のような分業による「共同制作方式」ではなく、制作者の個性的創意を生かすため、独自の版画を制作するという目的から、自分で絵を描き(自画)、自分で版を彫り(自刻)、自分で刷る(自刷)という、独創的で創造的な近代美術としての「版画」を表現することとなりました。
こうして日本各地で「創作版画運動」が盛んになり、青森市においても創作版画運動を担う作家が現れます。
青森市での創作版画の活動は、版画作品を貼りこんだ「創作版画誌」の刊行となって普及しはじめました。また日本各地で刊行された創作版画誌の交換(交流)により、創作版画の活動はしだいに全国的に広がりを見せるようになりました。
青森市初の創作版画誌は青森中学校(現青森高校)の同級生であった根市良三(ねいちりょうぞう)、柿崎卓治(かきざきたくじ)、佐藤米次郎(さとうよねじろう)が1930年(昭和5年)に刊行した「緑樹夢」(りょくじゅむ)といわれています。
彼らは体が弱く、学校の軍事教練等の授業に参加できなかったため、いつも緑の樹の下で見学していました。やがて絵が好きという共通点をもった三人は、作品を持ち寄り、版画誌「緑樹夢」を刊行します。その後、他の若者達も加わり「彫刻刀」、「純」、「陸奥駒」、「青森版画」等の創作版画誌が刊行されました。
これらの版画誌には、棟方志功、松木満史(まつきまんし)、鷹山宇一(たかやまういち)、関野凖一郎等、本県を代表する芸術家が多く参加し、それぞれの作品を発表する場、仲間の作品を鑑賞する場として利用されていました。
「緑樹夢」第3号表紙 1931年(昭和6年) 24.8×17.5cm 字 柿崎卓治 絵 根市良三
はじめ、日本の創作版画は「手のひらにのせて鑑賞するもの」といわれたほど、小型の作品が中心でしたが、戦後、版木として優れた「シナベニヤ」が登場すると、版画作品は次第に大型化しました。
そして戦後に来日した欧米人が日本の版画の魅力を世界に紹介することにより、版画は日本独自のアートとして高く評価されるようになりました。
なかでも棟方志功の個性あふれる木版画は、数々の海外美術展に入賞し、棟方志功は世界的版画家としての地位を確立しました。そして版画は日本を代表する芸術として認められるようになりました。
戦後、版画の世界では作品が次第に前衛的、抽象性を増していくとともに、自刻、自摺にこだわらず、版種にこだわらない版画、いわゆる「現代版画」が普及してきます。
現在では、写真やコピー印刷機をはじめ、コンピューターグラフィックなど、伝統的な版画の概念では捉えきれない多くの作品が生れています。
そして技法についても、木版などの伝統的な方法を受け継ぎながらも、それぞれの作家により工夫され、複雑に組み合わされた技法が生み出され続けており、現代版画の世界は、限りない多様化の道を歩んでいます。
このような中、木や紙のような自然素材を使用して制作する伝統的な木版画は、手の力で版木を刷り、刷るという原始的で素朴な技法と、和紙と絵具の調和が生み出す美術的効果の魅力が、再評価されてきています。
版画は、同じ版を用いて複数の作品を制作することができるほか、油彩画や彫刻と比べ、軽く、小さく梱包できるため比較的簡単に輸送することができるという特徴があります。このため、容易に海外などへ送ることができ、版画交流を通じて各国との文化交流に役立っています。
現在では日本の伝統的な木版画技法に関心を持つ海外の美術研究者や若い版画家も多く、日本は木版画の国として、世界的に注目されています。
木版画を制作する関野凖一郎
棟方志功や関野凖一郎らのように、故郷の青森市を離れ、首都圏などに定住し、日本を代表する版画家として有名となった版画家とともに、同じく青森市に生れ、青森という地方都市において、版画の創作を続けた多くの版画家がいます。
こうした青森在住の版画家が長年、本市の版画教育に携わり、版画の普及と発展につとめてきました。
このような地道な努力の積み重ねから、現在、青森市内の小学校では版画制作が授業に取り入れられ、「棟方志功賞板画展」(主催・青森市教育委員会)等の版画コンクールには毎年、多数の子どもたちの作品が応募されています。
青森市では、版画文化の更なる発展を目指し、日本の版画文化を担う作家の作品発表の場を提供するため、版画の全国公募展として1998年(平成10年)には「あおもり版画大賞」、2001年(平成13年)には「あおもり版画トリエンナーレ2001」を開催しました。
全国から応募された900点以上の版画作品を、木版画の部と、木版画以外の部の2部門に分けて審査し、入賞作品を展示した展覧会は、青森市民が優れた現代版画を鑑賞できる良い機会となっています。
また、平成13年12月に青森市雲谷地区に開館した「国際芸術センター青森」には、木版画、銅版画ともに最大で1.2m×2.5mの版画制作が可能な世界最大級の版画プレス機をもつ「版画スタジオ」が設置されています。
国際芸術センター青森では、芸術家が一定期間滞在して創作活動を行う「アーティスト・イン・レジデンス」により、現代美術の創作活動や、版画家による創作活動が行われているほか、一般市民を対象とした版画講習会が開催されています。
日本の版画文化を支えてきた多くの作家を輩出してきた「版画のまち・あおもり」の伝統は、現在も多くの市民の手によって支えられ、未来に向けて歩み続けています。
(文中敬称略)
国際芸術センター青森 「世界最大級版画プレス機を使用しての銅版画講座」
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