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更新日:2024年8月26日
明治維新後の日本は、「富国強兵」と「殖産興業」政策の推進のなかで、工場労働者の増大や農村人口の流出を招くこととなりました。
大正3年には第一次世界大戦が勃発、日本も参戦し、戦勝国となります。しかし産業優先政策の結果、国民生活は不安定となり、生活困窮者が増加、多くの人々が劣悪な環境下で厳しい生活を強いられるようになりました。
こうした状況を背景に、民生委員制度の原点である済世顧問制度、方面委員は誕生しました。
「済世顧問制度」の誕生~民生委員のはじまり
民生委員制度は、岡山県で創設された「済世顧問制度」を源としています。創設したのは、当時の岡山県知事であった笠井信一氏です。笠井知事は、大正5年、大正天皇から岡山県内の貧しい人々の生活状況について尋ねられ、その状況を調査したところ、県民の1割が「極貧」ともいえる状況にあることがわかりました。
事態の重大さに笠井知事は防貧制度(人々が貧困に陥らないようにその原因に備える予防的な制度のこと)を確立するため研究を重ね、1年後の大正6年5月12日、「済世顧問制度の設置規程」を公布しました。現在、この日が「民生委員・児童委員の日」となっています。
笠井知事が創設した済世顧問制度は、1.地域の優れた人材に顧問を委嘱する、2.防貧活動を使命とする、3.自立能力を潜在させている人びとがその力を発揮できる機会を提供し、自立を支援する、といった点が特徴としてあげられます。
「方面委員制度」の誕生
「済世顧問制度」が誕生した翌年の大正7年、大阪府で「方面委員制度」が創設されました。創設したのは、当時の大阪府知事であった林市蔵氏、協力者は大阪府最高嘱託、小河滋次郎法学博士です。
当時、富山県で発生した米騒動は大阪にも波及し、市民の生活はきわめて厳しい状況に陥ります。そうした状況のなかで創設されたのが「方面委員制度」です。
方面委員の「方面」とは「地域」を表します。各委員は、1.それぞれが一定の区域を担当、2.区域の訪問調査により世帯状況を常に把握する、3.生活困窮等で支援が必要な人は陣族に救済機関につなげる、といった役割を担い、それは今日の民生委員制度に共通しています。とくに、訪問調査により把握した世帯状況は、「カード」として書面化されていました。
済世顧問制度や方面委員制度の検討過程では、市内を地区に分け、それぞれに委員を配置し、住民の生活状況を把握するというドイツ・エルバ―フェルト市の「救貧委員」制度が参考にされました。
この後、方面委員制度は全国に普及していきました。青森市では大正9年に創設され、昭和3年には全国に普及し、委員数は1万5,155人を数えるところとなりました。
時代が昭和へと移っても国民の困窮は厳しいものがあり、当時の救済制度としては「恤救規則」がありましたが対象者が限定的であったため、新たな救貧制度が求められていました。全国の方面委員は広く福祉関係者と連携し、昭和4年、新たな公的救済制度を定める「救護法」が成立しました。法案審議では、困窮者支援の実行性確保について、全国に方面委員が存在し、住民の生活状況を把握していることが政府の支えとなりました。財政上の問題から実施時期は未定という状況が続く中、全国の方面委員代表者1,116名が連署した「救護法実施請願ノ表」を上奏し、事態は急転、昭和7年1月から救護法は実施されることとなりました。この救護法実施は市町村の事務であり、その補助機関として救護委員が置かれることとされましたが、救護委員は方面委員が兼ねることとなりました。
方面委員制度の全国への普及に加え、救護委員を兼ねる等の経過のなか、全国統一の制度として運用していくことが求められました。昭和6年4月、方面委員の全国連絡組織として全日本方面委員連盟(全国民生委員児童委員連合会の前身)が誕生し、初代会長には実業家の渋沢栄一氏が就任しました。そうした背景のなかで、昭和11年11月、方面委員令が公布され、法的な基盤が整えられました。
昭和12年、日中戦争が始まり、昭和16年には太平洋戦争に突入します。戦時体制が進み、国家総動員体制が強化されるなか、国民は厳しい耐乏生活を余儀なくされました。こうしたなかにあっても、出征軍人の家族への支援など、多くの方面委員が住民に寄り添った活動を続けました。そして、昭和20年8月、終戦を迎え、方面委員制度は民生委員制度へと変わっていくこととなります。
昭和21年9月、民生委員令が制定され、方面委員は民生委員と改められました。「民生」とは「国民の生活、生計」という意味で広く国民生活全般の相談に応じる役割を表す名称とされました。また、委嘱者も都道府県知事から厚生大臣(当時)に改められました。
戦後の窮乏の影響が大きい子どもたちを救うことが急務とされ、昭和22年、児童福祉法が制定され、民生委員が児童委員を兼任することとなりました。その理由として、戦前から児童の福祉は方面委員活動の柱となっていたこと、子どもの課題は家庭の状況を総合的に把握する必要があったからです。
昭和23年7月、民生委員法が公布されました。制度が法律化され、委員の資格要件、任期(3年)、などが明確にされました。
平成に入り、少子化の進行、児童虐待の顕在化など、子どもをめぐる課題が多様化し、児童委員への期待が高まります。しかし、急速な高齢化への対応で児童委員としての活動が十分に行えないという状況から、平成6年1月、主任児童委員制度が誕生し、1万3,000人が委嘱されました。
平成12年6月、民生委員法が改正され、民生委員の性格が「住民の立場に立った相談、援助者」と改められたほか「名誉職」規定の削除、地域福祉の担い手として「住民の福祉の増進を図るための活動を行う」こと等が明示されました。
近年、孤立や孤独、児童・高齢者・障がい者に対する虐待、悪質商法被害、災害への備えなど、地域住民の課題が多様化するなか、民生委員への期待は一層高まっています。しかし、同時に民生委員の負担も増大、なり手確保も大きな課題となっています。
誰もが笑顔で、安全に、安心して暮らせる社会づくりのため、民生委員活動は今日も続いています。
出典:民生委員児童委員のひろば平成29年4月1日 厚生労働省ホームページ
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