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更新日:2016年11月10日
常田健(1910~2000)は、1924年に弘前中学校に入学し、翌年、東京美術学校(現東京藝術大学)を卒業して赴任した穴澤赳夫から本格的な洋画技法を学びました。1927年には、穴澤赳夫、黒滝大休、内海九郎などと洋画グループ「未成社」を創立します。
1928年、中学校を卒業後、父の反対を押し切って上京し、川端画学校に入学します。卒業後は、日本プロレタリア美術家同盟研究所(プロレタリア美術研究所)で学びました。
1933年、郷里での軍事教練に反対した農業青年のストライキを聞き、帰郷しますが、ストライキは既に鎮圧された後でした。その後、関係者と交流があったと検挙、拘留されます。23歳で浪岡に戻った常田は、祖父の田畑やりんご園を手伝いながら、土蔵を改造したアトリエにひとり篭り、黙々と絵を描き始めます。以来、農民画家としての日々が続きました。
1934年、フレスコに興味を持ち、その表現を確立しようと、従兄の阿部合成とグループ「グレル家」を結成し研究を重ねます。この頃、地域の青年たちと絵画同好会「太陽会」を結成しています。
1939年、《ひるね》《飲む男》を二科展に出品し、《ひるね》が入選します。翌40年《睡れる水引人》、41年《はじまり》、43年《田の草取り》が二科展に入選し、それ以前とは異なる独自の画風が確立され、代表的な作品が誕生しました。二科展に度々入選した実績にも拘わらず、終戦後は中央画壇との縁を切ります。
1950年、相馬清、浜田正二、尾崎ふさ、山田治、千葉健作の画友たちと青森美術会を創立し、代表となります。1955年に日本美術会会員となり、主な作品の発表の場を青森平和美術展(青森美術会主催)と日本アンデパンダン展(日本美術会主催)としました。
常田健は、「絵は自分が描きたいから描く」という信念のもと、絵を売ることをせず、いつでも描いた絵を手直しできるようにそばに置き、土蔵のアトリエで制作し続けたことから「土蔵の画家」「大地の画家」などと称されています。
1910年(明治43年) | 青森県南津軽郡五郷村(現青森市)に生まれる。 |
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1924年(大正13年) | 青森県弘前中学校に入学。 |
1925年(大正14年) | 穴澤赳夫から本格的な洋画技法を学ぶ。 |
1927年(昭和2年) | 洋画グループ「未成社」の創立に参加。 |
1928年(昭和3年) | 上京し、川端画学校に入学。 |
1930年(昭和5年) | 日本プロレタリア美術家同盟研究所に入所。 |
1933年(昭和8年) | 帰郷。農業に従事しながら、作品制作に励む。 |
1934年(昭和9年) | 阿部合成とグループ「グレル家」を結成。 |
1939年(昭和14年) | 「ひるね」「飲む男」を二科展に出品、「ひるね」が入選。 |
1940年(昭和15年) | 「睡れる水引人」を二科展に出品、入選。 |
1941年(昭和16年) | 「はじまり」を二科展に出品、入選。 |
1943年(昭和18年) | 「田の草とり」を二科展に出品、入選。 |
1950年(昭和25年) | 青森美術会の創立に参加。 |
1951年(昭和26年) | 平井信作の新聞小説「生柿吾三郎の来歴」の挿絵を担当。 |
1955年(昭和30年) | 日本美術会会員。青森平和美術展、日本アンデパンダン展に出品。(以降、毎年出品) |
1975年(昭和50年) | 赤塚僚三の小説「弾部隊始末記」の挿絵を担当。 |
1991年(平成3年) | 第12回青森県文芸協会賞受賞。 |
1994年(平成6年) | 第27回浪岡町表彰受賞。第2回烏城賞受賞。 |
1997年(平成9年) | 第39回青森県文化賞受賞。 |
2005年(平成17年) | 常田健 土蔵のアトリエ美術館開館。 |
※作品の寸法は 縦×横 単位はセンチメートル
※掲載の作品は全て青森市所蔵作品
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