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更新日:2021年2月3日
コロナ禍のSTAY HOMEの状況で、社会的活動が少なからず制限されています。クラスターの発生などの閉鎖的な状況で、外から見えない高リスク家庭の児童虐待・DV・自殺の増加が懸念されています。
さて、「子どもの権利擁護」というと、妙に、お堅くて権威的なイメージがないでしょうか?擁護委員の私たちも、調整活動などで職名を名乗る時に感じることがあります。子どもの権利擁護のエスプリが、頭ではなく、肚の底から理解されているかというと少し疑問に思う時もあります。子どもの権利条例の制定の時も、「子どもを甘やかす」「権利を振りかざす」と主張する声がありました。誰にでも、同調・恭順・均一性を求める根強い願望があります。グローバル化を背景に、昨今は、多様な人材の活用、人材の発掘、斬新なアイデアの喚起、多様なニーズに対応しようとするダイバーシティ(多様性)の理念が浸透してきましたが、まだまだ個性のある生き方や異質な存在は排斥される世の中です。「権利の主張」には抵抗感やアレルギーが残っているように思います。
そうした中で、人権や権利の概念を再認識する驚きの言葉に出会いました。それは、幼少時から、虐待といえる悲惨な体験を繰り返し受けてきた少女が「私にだって生きる権利がある」と述懐したことです。
一般に、繰り返される虐待やいじめの前では、子どもは圧倒されて考えることも、訴えることもできなくなっていきます。「何をしても無駄だ」という学習性無力感・サレンダー(降伏)心理が形成されます。「存在自体がウザイ」と罵倒され、人間としての最低限の存在価値さえも否定されるような逆境の中で、「こんな私にだって、生きていく権利がある」と訴えた深い意味は計り知れません。少女は『生きる権利・育つ権利・守られる権利・参加する権利』という言葉に触れた時、辛うじて、自分が生存することの価値と、微かな希望を見出したのです。「自分は自分を見捨てない!」と決意したのでしょう。子どもの権利擁護というと、崇高な理念を唱えるものと考えられがちですが、「子どもの権利」という言葉が、一人の少女に勇気を与え、どん底から這い上がらせる力となったのです。当たり前の話ですが、どんな子にも、無条件に、幸せに生きる権利はあります。社会はそれを具現化しなくてはなりません。
最近は、暴力や恫喝のような顕在的な「目に見える権利侵害」とともに、意識する意識しないにかかわらず、子どもを真綿で締め上げるような不可視の「優しい権利侵害」が増加しているような気がします。言葉によるハラスメント、無視や孤立化、不合理な校則&恣意的な運用、子どもの相対的貧困…などです。
一人ひとりの子どもに向き合って、日々、権利擁護の認識が新たになっています。
子どもの権利擁護委員 関谷 道夫
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